ルームメイト 7気がついたら、私は病院のベッドの上だった。白い蛍光灯が、ベッドの上の薄い掛け布団を冷たく照らしている。萌黄色のカーテンに囲まれていて、室内の様子はよくわからなかったが、静まり返っている様子からすると、個室らしかった。私の右腕には針が刺さっていて、吊り下げられた袋から、透明な液体が一滴、二滴と私の中に入ってくる。横には、目の下が黒ずみ、無精ひげもちらほら生えている貴史がいた。私が目を開けたことに気づくと、かすかに安堵の表情を浮かべた。 「……貴史、ナナコは?」 「……怪我は、思ったより軽いから。内蔵も損傷していないから、治りも早いって」 「それはよかったわ。それで、ナナコは?」 「由佳が、今警察で取調べを受けている。果南子のところにも、たぶん後で事情聴取に来るから」 「ねえ、ナナコは?」 私はイライラしながら尋ねた。私がこんなに傷ついているときに、ナナコがそばにいてくれないはずがない。 「果南子、ハナコのこと、覚えているか?」 貴史が苦渋の表情で切りだした。 「ハナコ?」 突然何を言い出すんだろう。私は、貴史を睨んだ。 でも、ハナコって……。覚えがないわけではなかった。あれは……、彼女がそばにいたのは……。 左手首が、鈍く痛んだ。いけない。思い出してはいけない。 「高校三年の頃、果南子が先輩と別れて、ふさぎ込んでいたときの……」 貴史の言葉に、私は何も答えられなかった。 あの頃の記憶は、もう切れ切れになっていた。覚えているのは、冴木が別れ際に放った言葉。それから……? だめだ。思い出したくない。 「あのとき、傷を診てくれた医者が言っていただろ。架空の人物を創りだして、現実から逃げているって。心療内科できちんと診てもらうべきだって……」 「ナナコは架空の人物じゃないわよ!」 大声を出したら、脇腹の傷に響いた。私は顔をしかめて、左手でそっとおなかを押さえた。貴史は、それ以上言うのをやめた。 「……俺、そろそろ行くわ。あとで、母さん来るから」 「あんな女、来なくていい。ナナコを呼んで」 貴史は何も言わず、疲れた表情のまま、病室を出ていった。 一人になり、私は、ナナコのこととハナコのことを考えていた。 ハナコのことを思うと、なぜか左手首が疼くように痛む。私は、そっと左手首を目の前にかざした。貴史にもらった腕時計は、ベッドの横のテレビ台の上に載せられていた。たぶん、治療の邪魔になるのではずされたのだろう。 私は、じっと目を凝らした。左手首には、うっすらと白い傷痕があった。 ――冴木と別れた頃、彩子とは貴史のことで気まずくなっていた。母や父に何も期待できないのは、わかりきっていた。 貴史でさえ、もう昔の貴史ではなかった。彩子と別れた後も、貴史は手当たり次第にいろいろな女とつきあっていた。年上の女が多かったと思う。 そんなとき、確かに誰かがそばにいてくれた。私のすべてを受け止めて、包み込んでくれる優しい人が。それが、ハナコだったのだろうか。もう、ハナコの顔も、声も覚えていない。でも、優しい手の感触と、声がナナコに似ていたような気がする。 自然に、目から涙があふれた。 そうだ。確かに、ハナコとナナコは似ている。どうして、今までそのことを忘れていたんだろう。あの頃、あんなに頼りにしていた人だったのに。 あの日、ハナコにいろいろなことを話していたとき、私の声を訝しく思った貴史が私の部屋に来た。そして、ハナコの存在を否定した。言い争っているうちに、興奮した私は自分の手首を切ったのだ。もう私のそばにいてくれない、私の大切な人を認めてくれない貴史に当てつけるために。 応急処置も、病院へ連れていってくれたのも、みんな貴史だった。母は酔い潰れていた。彼女は、きっと今でも私が手首を切ったことなど知らないだろう。 包帯がはずれた頃、貴史は自分の腕時計を私にくれた。ベルトが太いから、傷痕を隠せるだろうという思いやりからだった。 ハナコは、それ以来私の前に現れなかった。現実のあわただしさに紛れて、私もいつしかハナコのことを忘れていった。いや、無意識に忘れようとしていたのだろう。ハナコのことを思い出すと、必然的に誰からも見捨てられていた、惨めな自分の姿を思い出してしまうから。生きるためには、忘れることが必要だったのだ。 母は、結局こなかった。入院用品を持った恵美さんが、申し訳なさそうにやってきただけだった。 「遅くなってごめんなさい。お義母さん、体調が悪いっていうものだから」 言い訳しながら、恵美さんはベッド横の戸棚に、洗面用具や着がえを入れてくれた。 「来てくれないほうがいいのよ。あの人の顔見ると、よけい傷が悪化しそう」 普段から私たち母娘の仲の悪さを知っている彼女は、小さく笑った。あの母に悩まされているという点では、私たちは同士でもあるのだ。もっとも、彼女にとっては私も貴史に執着している、うるさい小姑にすぎないのだろうが。 入院用品を片付けてしまうと、もう彼女にはすることがなかった。 「……それじゃ、愛里が心配なので、申し訳ないんですけど」 「いいわよ、気にしなくて。わざわざ悪かったわね」 わざと元気そうに言った。完全看護の病院なので付き添いは必要ないし、恵美さんにいてもらっても、心は落ち着かない。私が今そばにいて欲しいのは、ナナコなのだ。 恵美さんは帰ろうとしてドアに手をかけ、思い直したように振り向いた。 「……私、やっぱり別れることにします」 「貴史のこと、どうしても許せないの?」 彼女は頷いた。その拍子に零れ落ちた涙を、ハンカチで拭った。 「それに――それに私、愛里をあなたのようにしたくありませんから」 そう言うと、恵美さんは頭を下げて、病室を出ていった。 おとなしいだけの女だと思っていたのに、なかなか辛辣なことを言うようになったものだ。嫁姑の争いの中で鍛えられたのだろうか。それとも、母は強しということなのだろうか。 別に腹は立たなかった。 することもなく、ぼんやりと白い天井を眺めていると、ノックの音がして、返事をする前にドアが開いた。現れたのは、ラフなポロシャツにジーンズ姿の北嶋だった。手には、苺の入ったビニール袋を下げている。 「……よう、大丈夫か?」 昨夜の出来事に、あれほど腹を立てていたのに、北嶋の顔を見ると、思わず涙腺がゆるみそうになった。だから、自然とぶっきらぼうな口調になってしまう。 「なんで?」 「その、ニュースで見て、びっくりして……」 北嶋は、苺の袋をテーブルの上に置いたが、居心地悪そうに立ったままだった。 「それで、わざわざ?」 またも、涙腺がゆるみそうになったので、私はひとつ鼻をすすった。 「ヒナノも気にしてるんだ。昨日会って、刺せばいいって話題になったんだって? 偶然の一致にしても、自分の悪意が伝わったせいなんじゃないかって、その、すごく……」 一気に白けた。彼は私の身体を心配するあまり日曜日の夕方に駆けつけてくれたのではなくて、娘の取り越し苦労を解消してやるためだけに、渋々やってきたというわけだ。 「お嬢さんに教えてやって。憎まれっ子世にはばかるって言葉。私は全然ぴんぴんしてるから、心配するには及ばないわよ。残念なことにね」 少しの間、沈黙があった。 「帰って。もう二度と私の前に現れないで」 本心からそう言うと、私は横を向いた。 北嶋は、口の中で何かもごもご言うと、病室を出ていった。 ヒナノには、おそらくハナコやナナコのような存在が現れることはないだろう。それを羨ましいと思わないように、私は歯を食いしばった。 |